i - sa  プロフィール

遠い記憶からさまざまの思い出がある。

これらを引っ張り出し、プロフィール(略歴)としてまとめてみた。

1、両親のこと

2、私の誕生から幼児期
3、学習期     

4、就労期          

5、ゆとりの遊行期          

 

1937~1945 )

1945~1956 )

1956~1998 )

1998~ ?  )


1、両親のこと 



写真後列中央で高笑いの人物がおやじ松之助いかにも時代がかった名前ではある。
岐阜県の山奥、山田村の農家の3男として生まれた。
農業では自立できないため名古屋へ出てきた。お袋とは見合い結婚だと存命のとき聞いた覚えがある。夫婦喧嘩をしたのを一度も見たことがない。我々子供も怒られたことはまず無かった。
写真前列右から2人目がお袋道子 出生は奈良県?高山?親の仕事の関係で方々を転々としたらしい。 

詳しいことは今になって不明。存命のときよく聞いておけばと今になって悔やまれる。それでも当時としては珍しく女学校を卒業している。我が家は貧乏子沢山で、兄弟妹が6人いた。 

当時はそれくらいが普通だった。ある時、私が親父に「家はなんでこんなに貧乏なの?」質問したことがあった。

親父曰く 「子供が宝だ!だから貧乏ではない」 なるほど納得。 戦前戦後にかけて、両親とも大勢の子供を抱え

相当苦労したと思う。御袋に叱られた時、他の兄弟の名前を叫んで暫くしてようやく私の名前が出てくるケースが

度々あった事を思い出して懐かしい。

その時の名前は  「イーちゃん!」
我々子供は 親を 「トーちゃん、カーちゃん」 とちゃんづけで呼んでいた。
 

  2、私の誕生から幼児期

私が生まれたのは、19371028()丑年だ

時刻は分からない。親父が勤めていた会社の社宅、愛知県名古屋市熱田区金山町で出生した。

3男として出生したが、これについて後々分かった興味深いことがある。それは、

両親の血液型からして私の場合はまずそれはあり得ないらしい。

兄弟とはあんまり似ていない気もするのだが……ひょっとして?。

小学3年生のころ、お袋に尋ねたことを覚えている

   俺  「どこで生まれたの?」  

   お袋 「橋の下からよ」 そんな会話だった。 

本当に両親の子供かどうか今だに疑問を持っているものの、そんなミステリアスな事をいろいろ想像するだけでも

楽しいではないか。

 

 この年、ドイツから飛来した飛行船が炎上墜落した。

 

 1937年5月6日 

電気 放電 により発火
アメリカ、ニュージャージ、レイクハースト海軍飛行場。
(ドイツツエッペリン運行会社所有)       
 wikipedia

 

ネットで検索すると同年生まれではこんな人々がいる

江利 チエミ  【歌手、女優】 〔東京都〕

野添 ひとみ  【女優】 

雪村 いづみ  【歌手】 

美空 ひばり  【歌手】

加山 雄三      【俳優、ミュージシャン】

浅井 慎平      【写真家】 

緒形 拳     【俳優】 

伊東 四朗      【タレント、俳優】 

森 喜朗    【政治家】 

ダスティン=ホフマン  Dustin Hoffman 【俳優】    LITTLE BIG MAN 小さな巨人

ロバート=レッドフォード Robert Redford 【俳優】   大いなる勇者・明日に向かって撃て

ジェーン=フォンダ   Jane Fonda 【女優】         政治活動家。 父のヘンリー・フォンダ、弟の

                                  ピーター・フォンダ。       

ジャック=ニコルソン  Jack Nicholson 【俳優】     イージー・ライダー

 

もの心がついたのは、 たぶん3~4歳であろうか。

お袋と次男も一緒だったと思う。親父に抱かれて道を隔てた工場建屋の窓から

数人の女工さんが笑顔で手を振っていたことを映像として記憶に残っている。
場所は名古屋市港区の工場区域と思うが中学校の通学路にあってよく似た懐かしい風景だといつも思っていた。


今と違って幼稚園の制度は無い。この頃の記憶は断片的で極めて薄い。
 

昭和1912月(1944年)東南海地震が発生し、東海地域の工場は壊滅的な打撃を受けた。

この頃は名古屋市港区の社宅に移り住んでいたが、近くの工場の煙突が半分を残して崩壊したことを記憶している。

3、学習期

◆◆小学生時代

小学生時代は、戦争を挟んで過ごしたためよく記憶に残っている。

昭和18年会社の社宅から、2km位離れた中川小学校に入学した。クラスは「桜」の名札を付けてもらった。

当時の先生は、ほとんど若い女性で男性教師はどんどん出征していた。

 

成績はいつも上位だったことを覚えている。(通信簿は無くした)
担任の綺麗な先生にかわいがってもらった。後に疎開先まで習字用具を贈って頂いたことがあった。

暫くして、敗戦の色が濃くなってきて名古屋もアメリカ爆撃機B29による空襲が頻繁になってきた。

軍需工場が集中していた港区、熱田区の南部などが激しく爆撃された。

各家では防空壕を掘って備え、防空頭巾を枕元に準備して就寝した。

大人達は火災対策として、バケツの水をリレーして、的に当てる訓練や竹やりの訓練を大真面目に町内の

組織ぐるみで実施していた。

学校も軍事色が強まって登校時には歩調を合わせて校門をくぐった。

空襲警報のサイレンの度に電球を覆い、大型爆弾の着弾する振動に怯えた。

今だにサイレンの音や飛行機の爆音を聞くと当時を思い出しトラウマとして残っている

アメリカ軍は、沖縄を壊滅し広島、長崎に原爆を落とした。

大人達の会話を聞いて知った。原爆を「ピカドン」と呼んでいた。

なにもかも死滅させる兵器はどんな理由があろうと正当化はできない。
アンチ白人はその頃からだ。鬼畜米英の呼称は日常化していた。

 

或るとき空襲警報に従って近所の人達と広場へ避難したことがあった。
妹と一緒に布団を被って震えていた時、B29の編隊が爆音をあげ、我々の頭上を次々と通過したが、

その一機が我々の真後ろに中型爆弾を落とした。衝撃でお尻が持ち上がった。

すぐ背後に直径5m位の穴が開いて代わりに落ちた布団がポッポと燃えていたことを鮮明に覚えている。

避難場所が砂地だったことが幸いした。勿論直撃していれば今の私は無い。

 

名古屋大空襲で  数十軒あった社宅が焼夷弾の被害に遭って燃えてしまった。

 [参考]:名古屋大空襲は、大東亜戦争第二次世界大戦)末期、
アメリカ軍名古屋市に対して繰り返し行った空襲の総称、もしくはそのうちの特に市街地を標的として

大規模に行われたものをいう。

後者においては、最大規模の空襲であった1945昭和20年)3月12日、もしくは名古屋駅が炎上した3月19日

さらに名古屋城を焼失した5月14日の空襲などを指す。

           (Wikipedia(*爆弾・砲弾の一種で、攻撃対象を焼き払うために使用する)

 

 ◆疎開生活の始まり

名古屋の住家を焼かれ親父の実家へ疎開することになった。

岐阜県郡上郡徳永村、今の郡上市大和町へ8人家族のところへ我々7人が転がり込んだ。兄達は、

集団疎開先から戻って親父の実家元で合流した。親父の実家の戸主は囲炉裏の上座に座って威厳があった。

トイレは「ぼっとん式」で隣は馬小屋、その最中に馬のおならにびっくりした事があったっけ。

食べ盛りの我々子供5人はいつもピーピー腹を減らしていた。 

 

しばらくしてホームレスの小屋に引けをとらない程みすぼらしい掘っ立て小屋を作って引っ越した。それでも新築の一戸建てだ。

一枚板で張った壁板はところどころ隙間があいていて冬はいつも寒さに震えていたことを覚えている。
また、外から打った釘の先端が部屋の中に突き出ていたため、兄弟の取っ組み合いの際、私が 頭にぶっつけて血だらけになったこともあった。 未だに傷が残っている。


地元の山あいの小学校に転校して自然環境に恵まれよく遊んだ。
長良川支流の緩やかなところで溺れたことがあった。

溺れながら川底の砂地が太陽光を反射してキラキラしていて黄金色の縞模様をつくっていたことをはっきり覚えている。

親父は、名古屋にある工場に引き続き勤めており、多分焼け跡の始末が主な仕事だと思われるが単身赴任で

留守勝ちだった。
田舎での耐乏生活が始まった。

小学2年生の育ち盛り、しょっちゅう腹ペコで食い物に卑しかった。 お袋とよく 山菜?を採りにいった。
アズキナ、ヨメナ、セリ、タンポポ、木ノ葉のリョウブや藤の新芽、魚ではチチコ、桑の実などなど。

冬はなにを食べていたのか全く記憶にない。 特に寺の息子、学君とは気が合った。彼は今では和尚だ。また学校では同級生とよく喧嘩した後年、聞いたことによるとお寺さんとは遠い親戚だそうだ。     

                     *2010 年、幼友達の和尚からクラス会に誘われて参加した。

                        
こんな事件があった
神社への奉納祭りの時だ。われわれ子供達が揃いの祭り装束で、木で鍬を擬したのを手に畑を耕す様な素振りで、笛太鼓に合わせて踊りながら練り歩く。今でもメロディには記憶がある、シャンシャンリッツ シャンリッツ。

街道を行進する途中、昼食に白米の大きなオニギリが出された。まるで餓鬼のようにパクついた。

悲しいかな、腹をコワシテしまった。食べ慣れていないので腹がビックリしたわけだ。

踊って練り歩く途中、下痢して匂いを撒き散らして行列の仲間には大変な迷惑を掛けた。

60年経った今でも忘れられない事件だ。

 

また、こんな事も覚えている
学校で放課に運動場で友達とたむろしていた時、友達に、私が昨夜の友達と遊んだ夢の内容を友達も当然分かっているものと思って聞いたことがあった。彼は 勿論 「訳が分からず?????」 そばで聞いていた他の奴に馬鹿にされた。

大人達の戦争が終わったらしい。日本が負けたらしい疎開先の小学校で天皇陛下の放送を聞いたのを微かに覚えている。

 

玉音放送 とは、天皇の肉声を放送することをいう。特に昭和20年)8月15日正午にてラジオ放送された。

            この放送は、太平洋戦争大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝えるものであった。Wikipedia

 

こんな山奥でも進駐軍の兵隊がやってきた。ジープを囲んで子供達が群がった。アメリカ兵は我々に向かってキャラメルをばら撒いたことがあって、その一粒を運よく兄が獲得した。そのキャラメル一粒を包丁で透き通るくらいにスライスして分かち合いゆっくりゆっくり味わったことを覚えている。食い物の記憶はいつまでも忘れない。

 

名古屋への帰還

親父の会社が再建され新しく建設された社宅に入居した。2軒長屋の平屋が約50軒、我々子供達は仲間意識が強くよく遊んだ。ビー玉、缶けり、馬乗り、独楽回し、スケート、魚取り、トンボ獲りなど何時までも記憶に残っている。

 

名古屋の郊外では、当時ため池が数多くあった。B29の空爆による通称爆弾池で約30坪くらいのものがほうぼうにできていた。(爆弾が落ちた穴に雨水が溜まってできた池)

池にはゲンゴロウ、タガなどの水生昆虫や子魚がいっぱい棲息していた。

カエルの皮を剥いで餌にして、短い竿に糸でぶら下げてザリガニを釣ったこともあった。

それを釜ゆでしてもらって食べた。貴重なタンパク源だ。ウサギを飼っていた。

食用のためで、餌は兄達3人で交代で草を刈って与えていた。指先を鎌で傷つけた跡がいまでも残っている。

 

*遊びの一部詳細

魚の 手つかみ
昭和20年代、名古屋の郊外では田圃用のため池が沢山ありました。広さは約50㎡ 水深60~70cm位。

この池が我々の魚場となる。5~6人のわんぱく坊主同志、よく水遊びしたものです。

比較的平らな池底を、そーっと両手で目暗めっぽう探っていきます(水中眼鏡なんて手に入らない時代)
ちょっとした窪みにいる鮒に手が触れた瞬間、とっ捕まえる。文字どおり手ごたえは充分。

これは相当な熟練を要する。また池の横穴から天然ウナギを素手で悪戦苦闘して捕まえ、オヤジから褒められたことを思い出す。

トンボ 捕り
  手つかみ
枝の突端に留まっているトンボの目の玉に向けて、ひと差し指をくるくる回してそろそろと接近する。

トンボが目を回したところで羽を素早く捕らえる。 目を回したかどうかの判断が難しい。対象は赤とんぼ、シヲカラトンボなどで成功の確立は低い。

  ヤンマの友釣り

1m位の竿の先端に長さ50cm位の糸を結んで、もう一方にあらかじめ捕獲した雄のヤンマの胴体に結び付けて自由に飛べる

ようにする。右手にタモを携え、高さ2m位を浮遊しているヤンマの群れに向かって左手の竿を頭上に挙げて

                   「ヤンマ--ロメ-ロ!」 と叫んでくるくる回す。

すると我がおとりのトンボにガシャガシャと(メスと間違えて?)絡んで落下する。

そこを素早くタモで捕獲する。

面白いほど沢山獲れたが勿論 雌のヤンマのほうが断然効率が良かった。

そうそうトンボをむしって食べた奴がいたな。美味かったかどうかは聞いていない

今では農薬、都市化の影響で昆虫は居なくなってしまった。

 

本が好きだった

カモシカ少年、ジャングルブックなどの漫画本をお袋に買ってもらって夢中になって読んだことを覚えている。小学校でも図書室をよく利用した。

「日本の神話」など戦争を鼓舞するような本など内容は墨で消されていて内容は意味不明、それなら破棄すればよいのにと思った。

 

◆貯金箱からこっそりコインを頂戴したこと

手のひらに載るような貯金箱を、まず体勢は仰向けになって持ち上げる。コインの入口を下に向けおもむろにヘヤピンでコインを穿り出す。面白いくらいよく獲れた。オフクロはとっくに知っていたかも。

当時の遊びでは危険がいっぱいだ。

場合によっては3回も死んだことになる。

記憶をたどりながらまとめてみた。 

1.あわや爆弾に直撃(戦中)前述 

  住まいから少し離れた避難先で、爆撃機B29が我々の真後ろに中型爆弾が直撃してお尻が持ち上がった。

  5~6mの穴の中に妹と被っていた布団が転げ落ちてポッポと燃えていた事を鮮明に覚えている。

 

2.馬車に轢かれる

  当時の農産物などの運搬は馬による荷車が一般的であった。

  空荷で動いている馬車の後方に跳び乗ってドライブを楽しむ遊びの際に、

  友達が邪魔して場所が確保できず、

  横サイドから荷台へ乗ろうと跳んだところ足を滑らして荷台の下に下半身が倒れ込んだ。

  そこへ馬車の後方タイヤが腹の上を乗り上げてゴットンの音と共に通過した。

 (荷台の形状は約1.5×3.0m、高さ0.8m)馬車馬は何事もなく御者と友達を載せて行ってしまった。

 

3.屋根から真っ逆さま

数十軒の社宅の建築がまた始まって我々子供の遊び場所が増えた。丸太の足場を伝ったりぶら下がったり、友達5~6人と追っかけっこして動き回るのが楽しかった。その最上部にある丸太を渡ろうと手を差し渡して体重をかけた途端、真っ逆さまに丸太と一緒に転落し気絶した。気が付いたらだ~れもいない。 

頭のてっぺんにコブができてお袋に怒られた。夏休みには、水遊びで一日暮れた

工場の用水プールで遊び呆けた。また近くの中川運河ではポンポン蒸気船がハシケを連ねて行き来するのを、麦わらの束を浮き輪にして追っかけたり、水面から10m の高さはあろうか橋の欄干から飛び込んだり、今になって恐ろしいことをしていたとつくづく思う。

 

◆中学生時代                                                                      

   名古屋市港区の東港中学校に入学した。我々の地区では同期が6人いた。私と友達の勇ちゃんは新制中学へ入学し、

後のものは私学へ入った。連中は今頃どうしているだろうか。時々当時を思い出して会いたいと思う。
中学生時代3年間、ただ茫洋として過ごした思いがある。当時の正月は、それなりに緊張して新年を迎えていた。

そんな習慣や思いは今より強く残っていた。

 

鉱石ラジオの組み立てセットをようやくの思いで購入した。半田鏝で溶接する作業のとき事件が起きた。

電気鏝を使っているうちショートして手元から火を噴きだして数メートルのコードが燃え出した。

これには驚いた驚いた。素早くコードを引っこ抜いたので大事に至らなかった。

昭和26年頃だと思う。                 

      或る年、一人で熱田神宮へ初詣したことを覚えている。

雑踏のなかで、*香具師(ヤシ)を中心にして大きな見物人の輪ができていた。

その黒山の中に割り込んで香具師の巧みな口上を興味深々に見物した。

 

「さーてお立合い!小指で難なくスプーンを曲げられるよ!」
「さてさて歩いている人を 気合もろともピタッと留められるよ!」  
「この冊子を買えばやすやすできるぞ!たったの500円だ!」

 

そして、まんまと口車に乗って貴重なお年玉で買ってしまった。試してみた。結果はいまさら言うまでもない。そんな他愛ないことを正月の度に思い出す。性格が単純で好奇心だけが先行していたようだ。

                                *香具師 - やし〔「野士」の意という〕 縁日などに道ばたで手品・居合抜き・ こま回しなどで

       見物人をひきつけて巧みな話術で品物を売りつける。

 

学業はそれなりにコナした。英語教師は年老いた男性で、巻き舌を必要以上に強調して発音していた。

戦後間もないため満足な英語教師はいなかった。3年生になって、若い女性の英語講義はよく理解できた。

もっとも当時は文法偏重だった。それは高校英語まで続いた。ただ英語に対する興味は今でも続いている、

当時は外国旅行など思いもよらず言葉の構造が全く違うことと簡潔な表現に興味を持った。

アルバイトの「石臼磨き」で勉強机を買った覚えがある。値¥500だった。

◆◆高校生時代

           中学校卒業に際し、製造業の養成工を受験して合格していたが、独断で高校進学を決めた。

   親はよく許してくれたと今になってつくづく思う。

当時、高校へ進学出来るのはクラス50人中、数人しかいなかった。

受験の際、担任から 「お前は合格するはずがない」 とそっけなく止められたけれど,なんとかすべり込んだ。

先生の言われたことが今だに分からない。励ましたつもりなのか?

 

名古屋市港区から東区平田町の「愛知県立高等学校」へチンチン電車で約1時間かけて通学した。

手提げ鞄は市電乗換駅尾頭橋でお袋に買ってもらった。交通費、授業料込みで ¥1,000/月 で十分だった。

学校生活は、可もなく不可もなく平々凡々に過ごしそれなりに楽しんだ。
勉強は真面目にしたつもりなのだが 「評価は中の上」 と自分では査定したのだがはたして

 

友達には恵まれた、2年のころは、Mr.tanaka の家へよく遊びに行った。

50数年経った今でも、田中、内藤、前田、平野等は交流が続いている。

思春期、2年生のクラスは男女共学、当時は同年の女性は全く未知のもので、

一歩 退いて眺めていたが直接会話した記憶はない。未確認物体 UFOだ。

3年の時、また男子クラスに戻った。 

卒業して半世紀余、毎年開かれる クラス会 を楽しみにしている。